2022年10月13日木曜日

「ストーナー」

ジョン・ウィリアムズ著「ストーナー」を読んだ。

どこかで、「美しい小説」として紹介されていたからだ。

読み終わって、この透明な美しさはなんだろうと思った。

物語は、ある一人の男性の死を振り返るところから始まる。

ウィリアム・ストーナー。

平凡な大学教員として、特に華々しい名声を得るわけではなく、また晴れやかな家庭生活を送るのでもなく、一生をミズーリ州で過ごした一人の、普通のアメリカ人。

アメリカ全体はもちろん、州にも、生まれ育った農村部にも、長年勤務した大学にも、また授業や論文指導を行った学生たちにも、さほど大きなインパクトを与えることのなかったその死。その人生。

しかし彼は生まれてから懸命に働き、大学で懸命に学び、そして真剣に教育に携わったのである。その結果が、いわゆる"何も残らない人生"と言われるものになったとしても。

この小説を読んでいくと、そんなどこにもいる「平凡な一人の人間」の一生を、読者は追体験することになり、そして今生きている自分のありようを振り返ることになるであろう。


時代が違っても国が違っても、

我々は毎日、地道に、真面目に、与えられた役割をこなしながら一瞬一瞬を生きている。いつか認められる、いつか満たされる、あるいは、いつか成し遂げる、と思いながら。

しかし生きることはうまくいかない。思うようにならず、思ったようにならず、また思わぬところでつまづきが与えられる。正義は必ず勝つというわけでもないし、愛は永遠に続く、というのでもない。

それが普遍的であることが、読み手である我々にも痛切にわかるとき、この小説はとても美しく感じられるのであろう。

言葉の紡ぎ方も美しい。行ったことのないミズーリ州の、なんということもない日々の景色のきらめきが眼前に現れるようだ。それは翻訳の東江一紀さんが、この本の翻訳に文字通り命をつぎ込んだ、その思いのもつ力なのかもしれない。


個人的には、少し前の時代の話とは言え、大学内の人事に関わる生々しい駆け引きが、何か身に迫る気がした。私自身は大学を辞してしまったけれども、大学という場所で起こる理不尽、今でいうハラスメントにもつながる問題は、おそらくまだどこかに根強く残っているのではないかと感じるからだ。ただ、ストーナーの時代には、まだ研究に没頭できる時間がある程度確保できる環境だったのだろうなと、それはまぶしく思えた。


高潔にして、一点の曇りもない純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった。知恵を授かりながら、長い年月の果てに、それはすっかり涸れてしまった。ほかには、とストーナーは自問した。ほかに何があった?

自分は何を期待していたのだろう?

(本文より)



自分は何を期待しているのだろう、この自分に? 

と自分に問うてみる。


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